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  『通過』
2004年5月  於 こまばアゴラ劇場
通過
design:kyo
性機能不全の夫、親の介護にくたびれる妻、旧同級生との不倫関係。
一見、現代社会では生活の周辺にありふれた諸事情を抱える家庭に、一人の男が現れる。
男の「ユートピアをつくる」という発言から形作られていく環境に支配される人間たち。
激しい舞台シーン展開、それとは裏腹にある俳優の繊細な芝居によるリアリティの探求を試みた作品。


未上演にして第9回日本劇作家協会新人戯曲賞入賞。
【青年団若手自主企画】

c.青木司


  『ワールドプレミア』
2005年5月  於 アトリエ春風舎
ワールドプレミア
絵:羽藤明夫
とある施設。その一室で手術の順番を待ってる男がいる。
そこに突然、男の息子を名乗る若者が飛び込んでくる。
男はその若者に導かれるように、自らの記憶を辿る旅に出る。
不妊の悩みを抱える妻の存在。
実験動物を育てる仕事を持つ叔父の自殺。
こうして浮かび上がる記憶たちは、はたして本当に男の記憶なのだろうか?
死んだ者の記憶は残る者には美しく蘇る。
死んだ者の中では、二度と更新されない。
他者、自分の記憶というひどく曖昧なものが、個人を形成していく危うさを交差する時間軸と綿密な物語構成で描いた。


第11回日本劇作家協会新人戯曲賞入賞。
【青年団若手自主企画】

c.青木司


  『地下室』
2006年5月  於 アトリエ春風舎
地下室
design:kyo photo:momoko japan
東京の環状線と高速道路に挟まれた場所にある小さな自然食品の店。
そこに住んでいる店長と息子、そして店員たち。
彼らはその場所で小さな共同体を形成し、「水」や自然食品を販売し、自給自足の暮らしをしている。
「水」を作っているのはその店の地下に住む息子である。
ある日、一人の女の子が働きたいと店を訪れる。
息子はその女の子と出会ったことで、「水」を作れなくなってしまう。
「水」は枯れる。
彼らの生活はゆっくりと崩壊していく。


<チラシ裏コメント>
「本音」を吐くのは難しい。
いくら吐いてもその場の状況に左右されるだろうから。
「本音」はその場を驚かせたり、感動させたもん勝ちなのかもしれない。
「真実」とは似て非なるもの。
人間はすぐれたバランス感覚を持っている。
地下室のじめっとした空気の重みで俳優たちのバランス感覚がくるっていけば思ってもみないところに「真実」が転がりだすかもしれない。


【青年団若手自主企画】

c.青木司


  『シフト』 サンプル01
2007年1月  於 アトリエ春風舎
design:kyo photo:momoko japan <チラシ裏コメント>
日本人の雑食ぶりはたいしたものだと思う。自然食にサプリメントにコラーゲンにマイナスイオンに監視カメラに「個性」に心理学に占いに「魂」にと、全てを飲み込んでもびくともしない。
こだわりなんてものじゃなく、フェティッシュ心をくすぐられるものならなんでも良い。一種のアニミズムだ。信仰だ。
正確に言えばそれらに神が宿っているわけではなく、それらを愛でる自分を愛でるのだろう。そこには「複数の神=複数の自分」が存在する。
「自分探し」を始めるならまず、複数の自分を見つけるところから始めればいい。インターネットを始めるだけでも「私」の領域は何処までも拡大し、そこに複数の自分を併置できる。飽きたら降りる。そしてまた別の何かを探す。
もし全部に飽きてしまったら?とりあえず寝る。寝るのにも飽きたら?
伝統とか慣習はどうだろう。過去が未来を約束してくれるような、「私」の使命が明確になるような感覚は、ゴールに着いたか青い鳥を見つけたようなそれはそれは素晴らしいものだろう。
たとえ、それが「再現された」伝統でも「偽造された」慣習でも構わない。しかし、そこにも飽きたら?
・・・それはその時考える、という都合の良さも持ち合わせていればだいたい大丈夫なのではないだろうか。 人間賛歌を描きたいと思っています。
人間の標本、症例、試作品という意味で、「サンプル」というユニットの第一弾にふさわしいものを披露します。


【青年団リンク】

c.青木司


  『カロリーの消費』 サンプル02
2007年9月  於 三鷹市芸術文化センター、星のホール
design:kyo photo:momoko japan 最初に思いついたのが母と子の話。
次に思いついたのが、刑事の話でした。
母は老人ホームにいて、後にそこのヘルパーと共に失踪。
子や刑事は彼らの行方を追う。
しかし、逃げる側が追う側を追い越そうとするならば、その立場は一転することでしょう。

そこで、初めて認識するのです。
「私たちは逃げる必要もなければ、追う必要もなかった。」

しかし、彼らは移動をやめません。
何かに突き動かされているのでしょうか?
あえて理由を探すなら 「カロリーの消費のため」 としか言いようがない話なのです。


【MITAKA“NEXT”Selection 8th 参加作品】 

c.青木司


  『家族の肖像』 サンプル03
2008年8月  於 アトリエヘリコプター

design:kyo photo:momoko japan
「大人」であろうとすることに悩まされてきた人の転倒というか、
半分意図的な踏み外しと言えるような失態を見せたいです。
ちっぽけなきっかけから「立ってることがつらいなら転んじゃえ!」 というスローガンの元に大でんぐり返し状態が始まる。
そこには「私も連れてって!」という悲鳴とも歓喜とも区別がつかない叫びが聞こえてくるのではないでしょうか。
「どこに?」という言葉は意味をなさないでしょう。
彼らは闇雲にでんぐり返しをしていることも自覚しているのです。

この状況に積極的な意味を与えたい。
彼ら(僕ら)は他人ではないことを突きつけたい。
それでも誰かとつながりたいという無理矢理なリンクの要求をこの題名に託しました。

松井 周(主宰)


第53回岸田國士戯曲賞、最終候補ノミネート作品

c.青木司


  『伝記』 サンプル04
2009年1月  於 こまばアゴラ劇場
design:kyo photo:momoko japan 人間の一生を圧縮してダイジェストにしたら、やっぱりそれは感動的だと思います。

誰かの産まれて生きて死んだ記録には、どこかで自分と繋がるものを感じるだろうし、もしかしたらその人の祖先や自分の祖先を想像したりするでしょう。
その想像の線をずーっと遡っていくと、原始人とか微生物を越えて創造主にまで辿り着くかもしれません。
いや、宗教の話ではなくて、宗教的感情は誰にでも起こり得るということです。

完璧な伝記とは僕にとってはそのような宗教的感情をもたらすものだと思うのです。
もたらさないとしたらもたらすように作り替えることも必要かもしれません。

そんな目的のために集まった人々の話を書きたいです。

松井 周(主宰)

c.青木司


  『通過』 サンプル05
2009年5月  於 三鷹市芸術文化センター、星のホール
  design:kyo photo:momoko japan 性機能不全の夫、親の介護にくたびれる妻、旧同級生との不倫関係。
一見、現代社会では生活の周辺にありふれた諸事情を抱える家庭に、一人の男が現れる。
男の「ユートピアをつくる」という発言から形作られていく環境に支配される人 間たち。
激しい舞台シーン展開、それとは裏腹にある俳優の繊細な芝居によるリアリティの探求を試みた作品。



三鷹市芸術文化振興財団のHPにて
松井、辻、古舘のインタビューが掲載されています。→ クリック

 c.青木司


  『あの人の世界』サンプル06
2009年11月  於 東京芸術劇場  小ホール1
design:kyo photo:momoko japan 死んだ犬のことを忘れられないカップルがいる。
ダンスをやるために都会に出てきた女がいる。
運命の女を探すために歩き回る男がいる。
太いロープで繋がれた嫁と姑がいる。
姉の自殺を受け入れられない男がいる。
動物になりたい若者がいて、
革命を起こしたい男がいる。
彼らは自分だけの物語を語りながらも、
誰かの物語の登場人物のようでもある。
「私」は「あの人」かもしれないし、
「あの人」は「私」だ。
ここは物語の地獄なのか?それとも物語の天国なのか?

松井 周(主宰)


【フェスティバル/トーキョー09秋、
参加作品】  

c.石川純

外部演出作品
 
  『パイドラの愛』
2008年2月  於 サイスタジオコモネ  【文学座+青年団 自主企画交流シリーズ】

design:kyo
<チラシあいさつ文より>
虚飾の衣を剥いでゆき、そのまま真皮にまで到達しようとする行為を、もはや「自分探しゴッコ」などと笑ってはいられません。サラ・ケインが描き出した神話の世界は、現代をそのまま切り取った姿として現れます。取り繕いや臭いものにはフタ式の良識で成り立つその世界に閉じこめられたヒッポリュトスは、義母パイドラから「愛」のバトンを受け取ると、無垢な「悪」をもって、その世界に対抗していきます。しかし、実は敵は世界ではないのかもしれません。ヒッポリュトスの行動は自分に対する呪詛と読み取ることも可能でしょう。

作:サラ・ケイン 翻訳:添田園子(文学座) 演出:松井周(青年団/サンプル)
出演:反田孝幸 b、上田桃子 b、添田園子 b、仲俣雅章 s、斉藤祐一 b、神野 崇 b
b:文学座 s:青年団

c.青木司


  『火の顔』
2009年3月  於 東京芸術劇場 小ホール1
<火の顔  演出ノートより>
ここに出てくる家族をことさら歪んだものとして描こうとは思わない。
彼らのディスコミュニケーションの裏には依存心が見え隠れしていて、滑稽ですらある。スカスカの軽さがある。でもそれは日本の家族だって同じだろう。日本だけでなく、どこの国の家族にも通じるかもしれない。
その一方で彼らは成熟することを望む。しかし、そのモデルが親にも子供にもわからない。親も子供も近代的自我、つまり「個人」になることができない。
「依存と成熟に引き裂かれた家族」とはやっぱり現代の家族のテーマであり、だからこれは普通の家族の物語なのだ。
モデルがない中で家族を演じ続けようとする彼らは悲劇的であろうか?いや、そんなことはない。彼らの中にちらちらとほの見える欲望の炎に希望を見出すことは決して不可能ではない。俳優の身体がそれを証明すればいいわけだ。

作:マリウス・フォン・マイエンブルグ 翻訳:新野守弘
演出:松井 周(サンプル)
出演:猪股俊明、大崎由利子、野津あおい、菅原直樹、岩井秀人(ハイバイ)



【フェスティバル/トーキョー09春、参加作品】

c.青木司



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